まっすぐ
本音とか本心とか、
社会人を中途半端にしてきて、ずっと隠していたような気がする.
仔猫の6匹の貰い手を探すのに、久しぶりに昔のお稽古事をしていた時の友人に電話すると、そんなキーワードが返ってきた.
その猫好きな友人と話していて、私は猫を恐れているのかもと思う.
好きだから大事にするのと、怖いから大事にするのの違いくらい大きい.
その後母のボランティアワーク・ライフワークで出会った友人のお宅へ行った時も、
嘘つきの学友の話が出て、ドキドキした.
その90超えでも溌剌として背筋まっすぐ、60-70代にしか見えない方には、
長年の友人にずっと嘘はいかんということでいつかいってやろうと思いながら、
お金にまつわるエピソードを話してくださった.
事実というものは不思議なもので、如何様にも受け取れる.
嘘も方便、とか嘘から出た真(まこと)、本音と建て前などいろいろあるけれど、
その方によると、90%の女は嘘つきなんだそうだ.
うんうん、とうなづくとともに、私も90%のうちの一人だということを告白する.
半世紀も生きて、少なからずいろんな人に助けられて、なんとかやっているとつくづく思う.
その感謝に嘘はない.
私には信仰の厚い旧友が昔から近くにいて、その倫理感とかバランスが良いことと、勉強熱心なことには尊敬している.
今思うと、勉強にもいろいろなやり方と結果があって、
学校の勉強では、頭で考える無駄なインプットが多くて、経験しないことまで過剰だったこと、アウトプットのない学習はほとんど無意味で、定期テストまでにインプットして吐き出す、点数化するという機械学習のような悲しい勉強法でやっていた.
こういうときに本心とか本音の面倒くさい、とか、お金にならない、とかもっと気づくべきだった、今ならばAIがするから、人間のすることはベツ、とか言われるかもしれない.
それでも勉強することでできることが増えて、知識の扉を開ける、新鮮な未知の世界の空気を吸うような、あの清々しい感覚は忘れられない.
そんなわけでノートがたくさん部屋にあって、捨てられない.
パソコンが記憶し、手続きまでパソコンが流れを決める仕事が完成されていた30代の仕事では、ノートや鉛筆をほとんど持たず、気づいたら手に何か持って仕事をしたことがなかったと思う.